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お金についてのモヤモヤ

 小学生5、6年生のころクラスで集金用のお金を忘れてしまったことがある。そのときの集金額は100円で、小生意気なことに近くの友だちに「あーあ、100円で怒られるのかぁ」と漏らした。憎たらしい子供だ。それを耳にした担任の先生から「たった100円といま言ったか、自分でそれだけ稼げてからそんなことは言いなさい」と叱られた。ああ言えばこう言うタイプの少年は、「自販機のおつり口を一日探せばきっと見つかるよ」と口答えしていた。いや、これは憎たらしい。

 それから15年、たった100円を稼ぐ手段を僕は未だに知らない。一つだけ知る、そして現在実践中の方法は、会社に勤めることで対価(給料)を得ること。会社に頼らずに収入を得る術を持たないということは一つのリスクだ。不安だ。この不安を払拭するために、ぼくは何ができるのか。職人的な技術や手に職的な資格など、安易な考えがいくつも浮かんでは消える。

 でも、その前に、なんで不安になるのかも考えたほうがいい。ぼくは小さいころ、家が火事になることを何よりも恐れていた。家が火事になるという夢を何度も見た。当時の自分にとっては家が一番落ち着くところで、それが心のよりどころになっていて、それを失う、ということが怖かった。ただ、どんなに不安になっても当時の自分にはその対策をとれるわけではないし、それは実際には起きなかったし、杞憂に終わった。
何かを不安になるということは、心のよりどころになっているものを失うことへの恐怖だと言うこともできる。給料のほかに収入源をもたないことへの不安は、安定的な収入を失うことへの不安で、それはつまり安定的な収入がいまの自分の心のよりどころになっているということだ。収入だけが心のよりどころということではないけれど、その一部を担っていることは間違いない。

 どうして収入が心のよりどころになるのか。何をバカなことを。そんなこと、いちいち考える必要もない。貨幣経済のなかで社会の一員として暮らすうえで、貨幣の重要性をいちいち疑うことなど、それこそ一銭の価値もない。でもその逆に、あまりにも複雑になった金融システムのなかで貨幣の価値を説明ができる人もいないのだ。例えば、1円にどれだけの価値があるのかを考えたときに、「マクドナルド平価説」という説がある。例えば日本でビックマックが300円で売られていて、アメリカではビックマックが2ドルで売られていたとする。ビックマックの価値は日本でもアメリカでも変わらないから、じゃあ、300円は2ドルと等しいねということで円の価値が決まるという説。ただ、この説は様々な反論があって、お金の価値を決める上で決定的な説にならず、結局のところ、貨幣の価値がどういう風にして決まるのか、誰も分からない。そのときの国の情勢とか景気とかが複雑に絡み合って貨幣の価値は決まる。それに、例えば、ある銀行に対して預金者が一斉にお金を引き出すとその銀行は潰れてしまうことから分かるように、貨幣というのは数字の上では実在するように見えて、実は仮想的な一面を強く持っている。金融についてぼくは全くの無学者だけれども、このことは何となく感じる。
 
 貨幣とは、絶対的な価値のように思えて、相対的なものだ。暗黙過ぎる了解のうえで成り立つ紙切れだ。でも、それに頼らなければ生きていけない。それに頼れば生きていけるから、だからこそ、安定的な収入は心のよりどころになる。ここに、違和感を感じる。貨幣は紙切れのくせに、ぼくが生きていく形を決めようとしている、貨幣はというよりは、僕が抱く貨幣への盲目的な安心感が。

 小学生のころに先生に叱られた記憶は割と鮮明に残っている。100円を稼ぐことは大変で、それでも汗水たらして稼いだ100円はとても価値があって、それは分かるのだけれども、同時に100円はコーラ一缶で消えてしまうし、生意気な小学生がたかが100円と言うこともあるし、でも100円で1日を生活する人もいる。

 お金に振り回されたくない。

# by tsuruta1704 | 2012-05-16 23:18 | 社会への旅立ち 編 | Trackback | Comments(0) 

「ヒミズ」比較

古谷実の作品「ヒミズ」。去年、この本をたまたま手にしてすっかり夢中になったところに、映画化の話。いろいろと考えさせられる話なので、原作と映画を比較しながら、この話について考えました。あらかじめ断りますが、勝手な解釈です。


■妖怪と水について。
原作では妖怪が、映画では水が作品に漂う絶望や虚無感を表現する。

原作には、住田(主人公)にしか見えない妖怪が登場する。ことあるごとに住田の前に現れて、住田の心に暗い影を落とす。住田にしか見えないのだから、住田の心に巣食う、ネガティブななにかの現れだと思う。住田は、絶望的な境遇にある。母に捨てられ、父に存在を否定される。この絶望的な運命を背負うことは住田に大きな影響を与える。妖怪は、住田が無意識に抱える虚無感や絶望感を表している。
原作の最後、住田がよき理解者である茶沢さんと普通の未来について話し合ったあと、妖怪に問う。「やっぱり、ダメなのか。」妖怪は答える。「決まってるんだ。」普通の未来を手にすることはダメなのかと問い、心の中の虚無感が、ダメなことは決まっていると答える。決まっているとは、つまり、住田が陽をみることはないと言う事だ。ヒミズというタイトルそのもの。原作に一貫して流れる虚無感が妖怪の一言に凝縮される。普通になろうとして必死に足掻いたが、それはかなわぬ夢にすぎない。やるだけ無駄ということになる。

映画には、妖怪は出てこない。映画では、妖怪の代わりを水が担う。妖怪のもつ虚無感、絶望感を水が代替していることになる。映画は漫画以上に視覚に訴えるから、水が映画の雰囲気をひどく重いものしていることは間違いない。住田、というか映画全体に漂う虚無感を水はうまく表現している。しかし、それだけではない。水は多義的であるため、妖怪とは異なる役割を果たすことができる。水が住田の心の深層を表すものであるとするならば(水が人の心の隠喩になることは多いとのこと)、住田と川の中でびちゃびちゃになりながらけんかした茶沢さんと、雨の中で住田が殺した父親は、どちらも住田の心の中に深く入り込んでいる存在であることを示す。父親は住田の絶望であり、茶沢さんは住田の希望になる。

■住田の生死。
原作では、住田は死を選ぶ。映画では、住田は生きる事を選ぶ。この違いはおそらく、映画が大震災をそのストーリーに組み込んだことが大きいと思う。

原作では、住田は自らの命を絶つ。住田は、普通の未来を望むが、本人の意思とは別に普通ではない未来へと進んでしまう。住田には、生きようとする意思があるのだが、妖怪がそれを否定する。「決まってる」ことのだと。原作は、本当に救いのない話だと思う。ここまで虚無感を徹底する話は読んだことがない。死の直前に、「理解者」茶沢さんと将来のことを話し合い、それを夢見る。そんな夢を「本気で手に入れられるかもしれないと思った」のだ。なのに、なぜ死を選ぶのか。それは住田の心に巣食う妖怪の仕業としか考えられず、妖怪(虚無感)はなぜ現れたのか、それは住田の不幸な境遇によることが一因であることは想像がつくが、他にいったいどのようなことが考えられるか。誰でも住田のような心境になりうるのか。この辺りは、疑問がつきず答えも見えない。ただ、このようなときに欧米文化圏では、宗教という最後の救いが現れる事が多いが、日本ではそのような展開になることは少ない。日本でも昔(中世のころまで)は仏教がその役割を担っていたのかもしれない。最後の最後で手を差し伸べる救いがないことは、危険なことだ。

一方、映画では、住田は生きる事を選ぶ。原作と同じように、茶沢さんと将来の夢を語り合った後に銃を片手に川の中に入って行く。銃声の後、茶沢さんが目を覚まして住田を探しに行くが、住田はいない。しばらくすると、住田が川の中から出てくる。川の中に入って行くということは、先ほどの考え方をあてはめると、川=水=心であり、つまり自分の心と向き合ったということになるのか。そのまま沈み込まずに這い上がってきたということは、心に巣食う絶望に引きづりこまれることなく、それを克服してきたということになる。ここが原作と大きく違うところで、原作では虚無感に殺され、映画ではそれに打ち勝つ。その後、茶沢さんと住田は、自首するべく刑務所まで走っていき、「住田、がんばれ」と叫び続ける。「がんばれ」とは、特に住田のような心境の人にはあまり言うべきではない言葉だ。茶沢さんだけでなく住田も自分に対して「住田、がんばれ」という。なのに、この場面で、これ以上ふさわしい言葉はないように思われる。原作とは違い、住田は陽をみるべく、土から出てきたということになる。茶沢さんの助けはもちろん大きいだろうけれど、宗教とかスピリチュアルなものに頼らせることなく住田を立ち上がらせたのは、大震災が監督に与えた影響が大きいのだと思う。

■最後に
「そうさ僕らは世界に一つだけの花」と歌われてから(かどうかは知らないけれど)、個性が叫ばれる。できれば僕だって個性的になりたいけれど、何が個性か分からない。でもとりあえず個性的であれという社会の風潮。そんな社会に、「普通最高!」と叫ぶ住田は、逆説的だけれども、ものすごい反社会的で個性的なのだ。そんな少年の話は、いろいろなことを考えさせてくれました。

まとまっていませんが、以上です。

# by tsuruta1704 | 2012-04-15 22:11 | 映画・本 | Trackback | Comments(0) 

株式会社”泥棒”

朝起きて窓を開けると、窓の鍵の周りのガラスが割れている事に気づいた。変なところが割れているなと、隣人の同僚を呼んできて、おいおい見てよ、窓が割れてるよ、誰か石でも投げたんかな。そうだとしたら器用に投げるよな、きれいに鍵の周りがわれてるじゃん。そういえばそうだなあ、と間の抜けた会話の結論は、ガラス屋さんを呼ぶ事で、とりあえず修理してもらおうかなということに決めた。同僚が自分の部屋に戻って、しばらく割れた窓を眺めていると、割れ方が不自然にきれいなことが気になり始めた。割れ口が三角形。もしかしてこれって空き巣。再び同僚を呼び戻して、やっぱりこの割れ方、狙わないとできないよな。言われてみればそうかも、なんかなくしたもんとかないん。おお、ノートパソコンがない、、、あ、でもそんくらいか。ということで空き巣が発覚した。特段高価なものはおいてない。盗られたノートパソコンはほとんど壊れかけ。もう一人同僚を呼んできて、マジで空き巣、危ないなおい、それにしても一番なんもなさそうな部屋に入るとはなんとも間の抜けた空き巣だな、とワイワイしつつ、警察を呼んだ。
二、三人でくるのかなと思ったら、十人以上の警官がやってきて、まず指紋と足跡の採取。特別な粉を床に振り撒いて、光を当てると、土足で部屋内に侵入していた足跡が明確に浮かび上がった。事件現場をべたべた触っていた自分と同僚二人は、指紋を採取された。

盗まれたものは他にありませんか。えっと、あ、時計がない、、、それとペンタブレットも、、、と次々と明るみになる被害品。自分の部屋に何があるのか、割合覚えておらず、質問を受けて、うーむ、と頭を悩ませるとやっと、盗品が分かる。結局、ノートパソコンとペンタブレット、それに時計が被害品。

犯人が捕まれば、連絡しますが、盗品が手許に戻ってくる可能性はまずないと考えておいてください。


後日犯人が捕まり、自分が仕事に出ている最中に現場確認のため犯人を連れてお宅へ伺いたい、との連絡が入ったが仕事中であったことと、犯人の素性があまり良くない人らしく顔を覚えられたくもないので、現場確認の件は立ち消えした。
盗品は見つかりましたか。確認するもむなしく、被害届をいただいた物品は、いまのところ押収されていません。大変遺憾ですが、云々。

犯人が捕まったなら、せめて物品でなくともお金でもいいから返すようにならないのか。
答えは否。

この泥棒は、株式会社”泥棒”の株主なのだ。
この泥棒は、株式会社”泥棒”に、泥棒という行為と引き換えに、株式を受け取る。
株式会社”泥棒”の株式を保持する事で、”泥棒”行為に派生する利益を享受できる。
今回の逮捕により、株式会社”泥棒”は多大な負債とともにつぶれてしまった。
しかし、泥棒自身は株式会社”泥棒”の一株主であり、自分の持ち分以外の責任を問われることはないのだ。


泥棒は、ずるい。

# by tsuruta1704 | 2012-02-09 01:26 | とある会話から | Trackback | Comments(0) 

政治はスパイラル

王様が政を司る時代があった。
王様が好き放題やるようになって、みんなうんざりした。

その後、貴族と呼ばれるお金持ちな人々が集まって、そこで大事な事柄を決めるようになった。
でも、お金持ちが喜ぶように物事が決まってしまって、みんなうんざりした。

その後、国民であれば誰でも政治に参加できるようになった。
最近は、国会に催涙弾が投げつけられて、みんな涙した。

# by tsuruta1704 | 2011-11-23 21:51 | とある会話から | Trackback | Comments(1) 

パトスとにきび

草と木と石がある。
人間が現れるまで、草も木も石もなかった。
草には草という名前、
木には木という名前、
石には石という名前、
名前を持たせることで、人間は区別して認識できるようになった。

夜になる。
草と木と石が闇に紛れる。
草と木と石との境がなくなり、区別も認識もできなくなる。
原始の世界。

この状態はパトスに満ちていると言えますね。パトスです、パトス。感情のことです。
一方で、夜になる前の世界。これは理性が支配する世界。ロゴス(理性)です。

人間の行動は、パトスな部分とロゴスな部分とを持ち合わせています。
とても冷静に理性的な行動をとる事もあれば、アチっと考える間もなく反応することもあります。前者はロゴス、後者はパトスがそのときの人間の内部に影響しているのです。
さて。
ロゴスとパトスを完全に切り離した超人がいます。デカルトです。
我考える、ゆえに我あり。ロゴス(精神)とパトス(肉体)。ロゴスにパトスを支配させたのです。どういうことか。
真夏に汗一つかかずにマラソンをすることができるということです。
ロゴス(精神)が肉体(パトス)とは全く別物であり、精神は肉体の上位に位置します。汗をかくなとロゴスが命じればパトスはそれに従うしかないのです。そんな精神と肉体の極限の関係を築いたのがデカルトなのです。


一方で。
「おい!にきびがあるんだよ、にきびが!これがどういう事か分かるか?」
「・・・」
「若いってことだよ、にきびは若さの象徴だ、若さが吹き出てしまうんだ」
高校のときの現代文の先生が「羅生門」の解説で、下人のにきびに着目して、にきびがあるってことは下人は若いってことなんだよエネルギーの吹き出物だ、と主張する。

二つの話は高校のときの現代文の授業の話。
にきびが若さの象徴ならデカルトも若いときはにきびがあったのか。でも、身体をコントロールできるなら、にきびも出す出さないも自由にできたのか、とにきびで悩んだ自分としては、少しデカルトに憧れた。



# by tsuruta1704 | 2011-11-22 01:44 | とある会話から | Trackback | Comments(0) 

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