お金についてのモヤモヤ
2012年 05月 16日
小学生5、6年生のころクラスで集金用のお金を忘れてしまったことがある。そのときの集金額は100円で、小生意気なことに近くの友だちに「あーあ、100円で怒られるのかぁ」と漏らした。憎たらしい子供だ。それを耳にした担任の先生から「たった100円といま言ったか、自分でそれだけ稼げてからそんなことは言いなさい」と叱られた。ああ言えばこう言うタイプの少年は、「自販機のおつり口を一日探せばきっと見つかるよ」と口答えしていた。いや、これは憎たらしい。
それから15年、たった100円を稼ぐ手段を僕は未だに知らない。一つだけ知る、そして現在実践中の方法は、会社に勤めることで対価(給料)を得ること。会社に頼らずに収入を得る術を持たないということは一つのリスクだ。不安だ。この不安を払拭するために、ぼくは何ができるのか。職人的な技術や手に職的な資格など、安易な考えがいくつも浮かんでは消える。
でも、その前に、なんで不安になるのかも考えたほうがいい。ぼくは小さいころ、家が火事になることを何よりも恐れていた。家が火事になるという夢を何度も見た。当時の自分にとっては家が一番落ち着くところで、それが心のよりどころになっていて、それを失う、ということが怖かった。ただ、どんなに不安になっても当時の自分にはその対策をとれるわけではないし、それは実際には起きなかったし、杞憂に終わった。
何かを不安になるということは、心のよりどころになっているものを失うことへの恐怖だと言うこともできる。給料のほかに収入源をもたないことへの不安は、安定的な収入を失うことへの不安で、それはつまり安定的な収入がいまの自分の心のよりどころになっているということだ。収入だけが心のよりどころということではないけれど、その一部を担っていることは間違いない。
どうして収入が心のよりどころになるのか。何をバカなことを。そんなこと、いちいち考える必要もない。貨幣経済のなかで社会の一員として暮らすうえで、貨幣の重要性をいちいち疑うことなど、それこそ一銭の価値もない。でもその逆に、あまりにも複雑になった金融システムのなかで貨幣の価値を説明ができる人もいないのだ。例えば、1円にどれだけの価値があるのかを考えたときに、「マクドナルド平価説」という説がある。例えば日本でビックマックが300円で売られていて、アメリカではビックマックが2ドルで売られていたとする。ビックマックの価値は日本でもアメリカでも変わらないから、じゃあ、300円は2ドルと等しいねということで円の価値が決まるという説。ただ、この説は様々な反論があって、お金の価値を決める上で決定的な説にならず、結局のところ、貨幣の価値がどういう風にして決まるのか、誰も分からない。そのときの国の情勢とか景気とかが複雑に絡み合って貨幣の価値は決まる。それに、例えば、ある銀行に対して預金者が一斉にお金を引き出すとその銀行は潰れてしまうことから分かるように、貨幣というのは数字の上では実在するように見えて、実は仮想的な一面を強く持っている。金融についてぼくは全くの無学者だけれども、このことは何となく感じる。
貨幣とは、絶対的な価値のように思えて、相対的なものだ。暗黙過ぎる了解のうえで成り立つ紙切れだ。でも、それに頼らなければ生きていけない。それに頼れば生きていけるから、だからこそ、安定的な収入は心のよりどころになる。ここに、違和感を感じる。貨幣は紙切れのくせに、ぼくが生きていく形を決めようとしている、貨幣はというよりは、僕が抱く貨幣への盲目的な安心感が。
小学生のころに先生に叱られた記憶は割と鮮明に残っている。100円を稼ぐことは大変で、それでも汗水たらして稼いだ100円はとても価値があって、それは分かるのだけれども、同時に100円はコーラ一缶で消えてしまうし、生意気な小学生がたかが100円と言うこともあるし、でも100円で1日を生活する人もいる。
お金に振り回されたくない。
それから15年、たった100円を稼ぐ手段を僕は未だに知らない。一つだけ知る、そして現在実践中の方法は、会社に勤めることで対価(給料)を得ること。会社に頼らずに収入を得る術を持たないということは一つのリスクだ。不安だ。この不安を払拭するために、ぼくは何ができるのか。職人的な技術や手に職的な資格など、安易な考えがいくつも浮かんでは消える。
でも、その前に、なんで不安になるのかも考えたほうがいい。ぼくは小さいころ、家が火事になることを何よりも恐れていた。家が火事になるという夢を何度も見た。当時の自分にとっては家が一番落ち着くところで、それが心のよりどころになっていて、それを失う、ということが怖かった。ただ、どんなに不安になっても当時の自分にはその対策をとれるわけではないし、それは実際には起きなかったし、杞憂に終わった。
何かを不安になるということは、心のよりどころになっているものを失うことへの恐怖だと言うこともできる。給料のほかに収入源をもたないことへの不安は、安定的な収入を失うことへの不安で、それはつまり安定的な収入がいまの自分の心のよりどころになっているということだ。収入だけが心のよりどころということではないけれど、その一部を担っていることは間違いない。
どうして収入が心のよりどころになるのか。何をバカなことを。そんなこと、いちいち考える必要もない。貨幣経済のなかで社会の一員として暮らすうえで、貨幣の重要性をいちいち疑うことなど、それこそ一銭の価値もない。でもその逆に、あまりにも複雑になった金融システムのなかで貨幣の価値を説明ができる人もいないのだ。例えば、1円にどれだけの価値があるのかを考えたときに、「マクドナルド平価説」という説がある。例えば日本でビックマックが300円で売られていて、アメリカではビックマックが2ドルで売られていたとする。ビックマックの価値は日本でもアメリカでも変わらないから、じゃあ、300円は2ドルと等しいねということで円の価値が決まるという説。ただ、この説は様々な反論があって、お金の価値を決める上で決定的な説にならず、結局のところ、貨幣の価値がどういう風にして決まるのか、誰も分からない。そのときの国の情勢とか景気とかが複雑に絡み合って貨幣の価値は決まる。それに、例えば、ある銀行に対して預金者が一斉にお金を引き出すとその銀行は潰れてしまうことから分かるように、貨幣というのは数字の上では実在するように見えて、実は仮想的な一面を強く持っている。金融についてぼくは全くの無学者だけれども、このことは何となく感じる。
貨幣とは、絶対的な価値のように思えて、相対的なものだ。暗黙過ぎる了解のうえで成り立つ紙切れだ。でも、それに頼らなければ生きていけない。それに頼れば生きていけるから、だからこそ、安定的な収入は心のよりどころになる。ここに、違和感を感じる。貨幣は紙切れのくせに、ぼくが生きていく形を決めようとしている、貨幣はというよりは、僕が抱く貨幣への盲目的な安心感が。
小学生のころに先生に叱られた記憶は割と鮮明に残っている。100円を稼ぐことは大変で、それでも汗水たらして稼いだ100円はとても価値があって、それは分かるのだけれども、同時に100円はコーラ一缶で消えてしまうし、生意気な小学生がたかが100円と言うこともあるし、でも100円で1日を生活する人もいる。
お金に振り回されたくない。
# by tsuruta1704 | 2012-05-16 23:18 | 社会への旅立ち 編 | Trackback | Comments(0)

